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たびロジー12 正しい? 間違い?

2007年11月08日 09:19

新聞やTVでは毎日毎日「あれはおかしい」「これは間違っている」だのと忙しい。
いったい何を基準に正しいとか間違っているとか言っているのだろうか?
そもそも何かを「間違い」と言い切ることなんてできるのだろうか?
当ブログでもずいぶん偉そうなことを書いている。
一度確認しておく必要がある。
「間違い」ってなんだ?
本当は、何かを語るならまずこの問いに答えなくてははじまらない。
だって「正しい」「間違い」の判断基準も知らなくて、どうして「正しい」だの「間違い」だのと言えるだろう。
これに答えられないのなら、自分が信じているだけの「信仰」を相手に押し付けているだけってことになる。
原理主義だ。


問1。
こんなことがあった。
登場人物は私、バングラデッシュの紳士、チリの淑女、日本人の彼、日本人の彼女で、私以外のふたりの日本人はカップルだ。

私「じゃあ今日は割り勘で」
バングラデッシュの紳士「日本人の彼女の分はオレが払う」
日本人の彼「いや、割り勘にしようよ」
バングラデッシュの紳士「払いたいんだ」
チリの淑女「女性の分を払うのは海外では自然。払わせてあげなさい」
私「日本人の彼が気分悪いんじゃない?」
チリの淑女「なんで?」
バングラデッシュの紳士「はい、これ(とお金)」
日本人の彼女「いいですいいです、自分で払います」
チリの淑女「それは失礼よ」

このあと大ゲンカしたとしよう。
誰が間違っているのか?

「日本で起きたことなら外国から来たふたりは日本のマナーを理解すべきじゃないか?」
「でも普段からそういう付き合いをしてるならそうも言えないだろう」
「法的にはどちらも問題ないわけだから、誰も悪くないでしょ」
とかなんとか、いろんな意見が出るだろう。
この場合、誰かを絶対的に間違っていると断定するのは不可能に思える。

では、日本人の彼が怒り狂ってバングラデッシュの彼を石で殴って殺してしまったとしよう。
その場合、日本人の彼は間違ってはいないだろうか?
普通に考えれば、答えはもちろん「間違っている」だ。

なぜこの場合は「間違っている」と言えるのだろう?

それは「人を殺してはいけない」という命題に対して全員が合意しているからだ。
そこには明確にであれ暗にであれ、合意事項、つまりルールがある。
合意されているルールに反しているのだから、その場合は「間違っている」と言い切れるわけだ。

でもこれが戦争だったら?
彼の行動は正当化されるかもしれない。
「人を殺してはいけない」というルールが合意されていないのだから、正当化される可能性だってあるわけだ。


問2。
1+1=10
これは間違いか?

常識的には間違いだ。
1万円の何かと1万円の何かを買おうとして「合計10万円です」なんて言われたら、「そりゃ違うだろ」って話になる。

でも、小さな子供が落書きをしていてたまたまこの図を描いたとする。
当たり前だけど、それならこれは絵だから正しいも間違いもない。

これが二進法で書かれた数式だとする。
とすればこれは正解だということになる。

でも。
普通はそんなことありはしない。

日常生活をするうえで、たまたまにしてもこんな絵を描く人はいないし、二進法の計算式を書くこともない。
だから「1+1=10は正しいか?」という質問をされて、「間違ってる」と答えたあとに、「ブッブ~、二進法だと正解でーす」なんて言われたら、そりゃムカつくってもんだろう。
日常生活では「1+1=2」というルールが成立しているのだから。


結局、問1も問2も問題は、「ルールに違反しているかいないか」ということのようだ。

問1のような社会的な問いはわかりやすい。
人によって立場が違うわけだから、合意事項に違反しているかどうかで正誤を決めるしかない。
当たり前の話で、たとえば慣習とか法律がその役割を担っている。

実は自然科学もまったく同じ。
数学のような厳密な学問でさえ、何かを間違いだというためには、最初に置いておいたルールに違反するかどうかで判断するしか方法がない。
では「そのルール自体は本当に正しいのか?」と問うと途端に科学は破綻する。
それを検証するためにはルールの外に立ってそのルールを確認しなければならないが、科学の外に立って科学のルールを科学的に確認することなどできるはずがないからだ(一応、科学の領域の外に立つ役割りを哲学が担っているのだが)。

たとえば幾何学。
ユークリッドという古代ギリシアの数学者は、数学のルールを調べていくうちに、おおもとになるルールが5つあることに気づいた。
で、その5つのルールから様々な数学の法則性を導き出し、いろんな公式を発見した。
この数学体系を「ユークリッド幾何学」といい、このようなおおもとになるルールを「公理」と呼ぶ。

この5つの公理は2,500年間、絶対に正しいものと思われていたが、近年、公理なんてどうにでも設定できる、つまりルールなんていくらでも作り変えることができることがわかった。
こうなってくると、もう何が正しいかなんて言えたもんじゃない。
だってルールそのものが変わるんだから。

「三角形の内角の和は180度である」
「時間は過去から未来に向かってつねに一定に進む」
「空間は伸びたり縮んだりしない」

こういう当たり前のことだって、ルールを変えてしまえばどうにでもとらえられる。
実際アインシュタインはユークリッド幾何学のルールを変えてやたらとヘンテコな結論を導き出している。
でもおそらく将来、さらにまたまったくルールを変えて、まったく新しい科学理論が登場するだろう。
ニュートンの理論とアインシュタインの理論と将来の科学理論。
どれが正しいというわけではない。
ただ最初に設定したルールが違うというだけの話。
そして現在では日常生活を送るにあたって、ニュートン力学より相対性理論の方が都合がいい、というだけ。


さて、間違いの話。
どういうときに「間違っている」と言い切れるのか?
答えはどうやら「ルールに違反しているとき」、と言えそうだ。

では、どんなときルールに違反していると言えるのか?
答えはそこに「矛盾があるとき」、だ。
これを矛盾律(無矛盾律)という。


問1の解答。
会話中に矛盾はない。
だから誰も間違っているとは言えない。
でも、それではケンカは納まらない。
ならばまずそこにルールを設定することだ。

日本人の彼「お互い悪かった。でもここは日本だし、少し日本の習慣も覚えた方がいいと思うよ」
バングラデッシュの紳士「わかった。それじゃあこれから気をつける」
でもいい。

バングラデッシュの紳士「オレたちの関係はずっとこんな感じだったろ? なんで今回は払わせてくれないんだ?」
日本人の彼「わかったよ、そんなに言うなら払ってくれよ。でも彼女は渡さないぞ」
でもいい。

なんとか合意を引き出して、それを5人のルール(慣習)にすればいい。
そして将来同じようなことが起こったら、このルールと比較して関係を作っていけばいい。
このルールと矛盾したら、その人は間違っているのだ。
こうしてできあがる関係を社会という。


問2の解答。
1+1=10……①
一般社会において、「1+1」は数式と考えられるし、数式は普通十進法で書き表される。
それならこの式の答えは当然2だ。
1+1=2……②
2≠10であるから①と②の式は矛盾する。
よって、②が正しいなら①は間違いだ。

ただし。
この答えがどんなときにでも絶対に正しい「真理」かというと、そうは言えない。
実際別の世界、たとえば二進法の世界では①は正しいのだから。

 * * *

何か問題が生じたとする。
まず問うべきはその前提、ルールだ。

誰かとトラブったとする。
まず問うべきは、相手がどのような前提に立っているか、だ。

たとえばミクロネシアには食人文化が存在した。
「人を食べるなんてなんて野蛮なんだ」
かつて先進国の人間は誰もがそう考えた。
そしてその文化を滅ぼそうとした。

しかし、食人を調べていた文化人類学者は、必ずしも野蛮だなんて言えないことに気がついた。
食べられるのは主に亡くなった身内。
息子たちは親の死を心から傷み、親たちの身体を自分の身体に生かすため、親たちの記憶をなくさぬため、親たちの力を引き継ぐため、そして親たちを供養するために、食べていた。
彼らのルールでは、それはけっして野蛮な行為ではない。

誰かとトラブルになったとき、ほとんどはどちらかが間違っているというよりも、お互いのルールがまったく違うことが原因だ。
サッカーをやろうとボールを蹴ったら野球をやろうとしていた友人がキャッチして、それに対して「反則すんなよ」と文句を言っているようなもの。

ならばこう考えればいい。
どういう立場に立ったら相手の考え方に筋が通るのか?

人の気持ちになるということは、自分のルールを相手に適用することじゃない。
相手のルールを理解して、そのルールにしたがってものを見ることだ。

問題を解決するということは、相手を言い負かして自分が正しいと勝ち誇ることじゃない。
相手と話し合ってお互い納得するルールを設定することだ。

人はみんなと同じルールのもとで生きていると考えがちだが、文化も思想も価値観も無数にあって、厳密に言えば、すべての人間のルールは違う。
それが個性だ。

にもかかわらず相手を「間違っている」と断定できるケースはただひとつ。
相手のルールで物事を見て、なおそこに矛盾があった場合だ。
でも、そのためには相手のルールを完全に理解している必要がある。
つまり、相手を知らなければいかなる批判も意味がないのだ。

そうすると、正しいとか間違いとかいう発想ってそんなに大切なことなんだろうか?
いや、大切なんだけど、大切なんだけど……

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