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絵&写真5 リンゴの正体 ~セザンヌ主義~

2009年01月30日 14:26

東京でいちばん好きな空間は?
ココをひとつの候補地として挙げたい。
東京新宿の損保ジャパン東郷青児美術館、常設の特別展示室。
ゴッホ「ひまわり」、ゴーギャン「アリスカンの並木路、アルル」、セザンヌ「リンゴとナプキン」が並んだあの空間だ。
たった3点。
それで十分。

vangogh.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」1888年、損保ジャパン東郷青児美術館

さて、話は静物画だ。

学生時代は静物画などまったく理解できなかった。
この時代にリンゴだのナプキンだのを描いていったいなんの意味があるんだ?
正確に描きたければ写真を撮ればいいし、美を表現したければ風景なり抽象画を描けばいい。
物をキャンバスに写して何をしたいんだ?
そう思っていた。

そんな考えを変えたのがゴッホの「パリの小説」だ。
「美」についてたいへんな誤解をしているのではないかと気がついた。
セザンヌを見るとそれを強く意識させられる。

横浜美術館で開催されていた「セザンヌ主義-父と呼ばれる画家への礼讃」を見に行った。
やっぱりセザンヌはいいなー。
いろいろな絵を描いているけれど、ぼくはなんといってもリンゴなどのフルーツを描いた作品が好きだ。

セザンヌはこんなことを言ったという。
「リンゴひとつでパリを征服する」
そしてリンゴにこだわった結果、リンゴの絵を60点以上も残すことになった。

cezanne.jpg
ポール・セザンヌ「リンゴとビスケット」1895年、オランジェリー美術館

セザンヌはリンゴを描くとき、じっと見つめるのはもちろん、触れて肌触りや重みを確かめ、香りを嗅ぎ、食べて味わい、その音に耳を澄ませ……五官をフルに使ってリンゴを感じていたという。
挙句に「匂いが見える」とさえ言ったらしい。
泣けるほどによくわかる。

そもそもリンゴってなんだろう?

リンゴの色はリンゴではない。
リンゴから反射した可視光線を人の目がとらえ、それを脳(人の思考)が処理して見せているのがリンゴの色であり形だ。
紫外線や赤外線、X線でリンゴを観測すればまったく違う色・形になるし、動物や昆虫の目でリンゴを見ると全然違うものに見えるだろう。

同じように、リンゴの味はけっしてリンゴではない。
味は人が感じているもので、味自体はリンゴではない。
もちろんリンゴの香りもリンゴではない。
本当の「リンゴ」はもともとそれらが渾然一体となっているものだ。

そうすると、リンゴの色や形や味は人が生み出したものだとさえ言える気がしてしまう。
ところが、それも考えずらい。
そりゃそうだ、この世界のすべてを自分自身で創り出していることになってしまうから。

本当の「リンゴ」と、それを感じる「私」との間には、とても親密な関係がある。
どちらがどちらとさえ言えないような、主観と客観が混じり合うとても不思議な関係が。

セザンヌの言葉を使えば、「風景が私の中で考える。私は風景の意識なのだ」(モーリス・メルロ=ポンティ著、中山元訳『メルロ=ポンティ コレクション』ちくま学芸文庫より)ということになる。

cezanne2.jpg
ポール・セザンヌ「リンゴのある静物」1892-1895年、バーンズ美術館

話を戻そう。
リンゴを言葉で説明しようとすると、リンゴを色や形や肌触りや味や香りや音や物質の話に分けて語るしか方法がない。
でも、その方法ではどうやってもリンゴを正確に表現できない。
リンゴの味ひとつ、他人に伝えることができないのだから。
でも人は本当の「リンゴ」の存在を知っていた。
だからすべてを一気に説明する「リンゴ」という言葉を生み出した。

人は「リンゴ」も、それを感じているこの「私」も、正確に表現することができない。
ところが、人は「リンゴ」も、いままさに生きているこの「私」も、当たり前のように感じて生きている。

「原初的な知覚においては、この触ることと見ることという区別はあいまいである。次いで、人間の身体の科学によって、私たちは自分の五感を区別することを学ぶ。生きられた事物は、五感のデータに基づいて再発見されたり、構成されたりするのではなく、これらのデータを発散する中心として、一挙に自らを与える。私たちは事物の奥行き、手触り、柔らかさ、堅さを見る。セザンヌは<匂い>を見るとまでいっていた。画家が世界を表現しようとすると、色の配置がそのうちに、見えないものの『全体』を蔵している必要がある。そうでないと、画家の絵は、事物の暗示にすぎないものになり、差し迫った統一性、現前、乗り越えることのできない充溢(私たちのにとって現実的なものの定義とは、まさにこれにある)を与えることがない」(中山元訳『メルロ=ポンティ コレクション』ちくま学芸文庫収容、モーリス・メルロ=ポンティ著『意味と無意味』より)

人が感じる「リンゴ」とは、リンゴの色や形や肌触りや味や香りや音や物質のことではない。
説明できなくても、人はすべてが一緒くたになったリンゴをなんとなくイメージすることができる。
自分自身がいままさに生きていることを、色や形や肌触りや味や香りや音や物質で証明しなくたって、即座に知ることができる。

だからこそセザンヌは言う。
「自然を円筒形、球形、円錐によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい。つまり対象や画の各側面がひとつの中心点に向かっていくようにしなさい。――地平線に平行な線は広がりを、つまり自然の一断面を与えます。あるいはお望みならば、全知全能にして永遠なる神が私たちの眼前に広げてみせる光景の一断面と言ってもかまいません」(エミール・ベルナール宛の書簡より)

セザンヌにとって「リンゴを描く」とは、本当の「リンゴ」や本当の「私」にアクセスすること。
そして知性では到達できない「本当の世界」、「神の領域」に触れることを意味する。

だから、ぼくは時々損保ジャパン東郷青児美術館のあの部屋を訪れる。
そんな領域で生かされているぼくを見つめるために。

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